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◆『中性の草津』草津温泉誌第壱巻/萩原進◆

これはまたものすごくひどいメモです。
文の切れ目すら自分でも分らない。
きっと文章を書く手間も惜しかったのだな、当時の私よ・・・。
そして妙なメモは横にさらなる走り書きが書いてあって、いっそう訳がわかりません。
どこで調べたんだ・・・斉藤越前守の年齢なんて・・・;;

羽尾vs鎌原に真田介入、羽尾を滅ぼす。1563、援軍と称し真田軍が西吾妻に出兵、長野原城(元羽尾の)幸隆弟・常田新六郎が入城。鎌原は斉藤越前守と(判読不能2文字)、同九年東吾妻地侍を編成し、長野原を攻。常田は戦死、鎌原退却し敗北。湯本善太夫は常田を守っていたが敗戦で鎌原へ逃。岩櫃の斉藤はこれは全て鎌原幸道が羽尾と不和後、信玄に従ったためだ、鎌原を倒す以外になしと沼田の沼田万鬼斉と手を組み鎌腹攻略を企画。鎌原は幸隆の出兵を請い、三千騎が岩櫃城攻略のために出動。中に湯本善太夫(草津土豪・鎌原に従い長篠で討死)、西窪、横谷も。永禄十年十月、湯本善太夫・三郎左衛門尉は昌幸指揮下。斉藤は城を出て四万温泉→木根峠を越え上杉へ。同年鎌原は羽尾を追い出す。
永禄八年十月、斉藤越前守一子城虎丸は父の逃走後武山に篭る。越前はもう一度吾妻領をのぞみ武山へ入り、白井城長尾氏など地侍を味方にし、幸隆は地元鎌原・湯本・西窪・横谷を先陣にした。西窪治郎左衛門討死、唐沢杢之助討死、斉藤越前守(38)は城内に押し入った湯本善太夫の眼前で切腹。
羽尾城の海野長門守幸光と弟・同能登守輝幸は斉藤を裏切り幸隆についたため優遇され信濃に住み岩櫃城代となる。鎌原・湯本・横谷ら海野の城代に対し反対する地侍は真田預けとし海野の下へつけるのは避け、他の地侍は海野兄弟の下へ。←永禄九年。
幸隆死後、↑これに海野兄弟が不満を。昌幸は2人に反逆の意図有とみて矢沢頼綱に相談。「海野兄弟は豪勇である。そのうえいつ小田原へ寝返るか分らない。能登守輝幸の子・海野中務幸貞は自分の娘婿だが、この際やむをえない」昌幸は勝頼に打診、出兵。その中に湯本も。

おそらく湯本善太夫の事を調べていた時期のメモだと思います。
メモした当時は気付かなかったけど、出典はほとんど沼田根源記とかあのへんの古書とみた。
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真田氏と武田家臣団が好きで、資料まとめと史跡巡りをしています

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