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石河貞清

会議が明日に延びたので(笑)今日も早く帰ってこれました。
よっしゃこの隙にメモメモ続けるかー!

■日本人名大事典I ア−オ/平凡社/1983
石河貞清
備前守。秀吉に仕えて尾張犬山城主。邑12,000石。関ヶ原時には三成に与し犬山城に拠ったが、加藤貞泰・竹中重門ら兵七千余に攻められ関一政(石田軍記に福島正則に作る)の勧請によって開城帰順し、京師に走り(石田軍記に、城を致すのとき拾千五百兵あり、馳せて関ヶ原に赴き三成と会し本多三弥と闘い敗るるに及び朽木谷を経て京師に入るに作る)、龍安寺に入り、妙心寺閤長老に憑り、また大坂に往き、池田輝政に依りて京を請ひ、剃髪して宗林と号し、京師に居た(一説に、のち召されて徳川氏の家人になったと云ふ)/野史。君臣略伝

石河貞信
石河一光の一族。貞清の弟。雅楽助。秀吉に仕えて越前の田邑一万石。関ヶ原の後、光成に与して大谷吉隆と共に北陸道を徇へ、鯖江に陣し、北荘にいたって青木一矩らと軍議をなした。吉隆は小松を経て関ヶ原へ赴き、貞信は越前にあって三成に会し、供に戦山にと海津に至った。たまたま関ヶ原の軍敗れて三成奔ると聞き、潜かに京に入り、剃髪して宗巴と号し、今出川に幽居して終るといふ(野史)

石河一光(太閤記は貞友)
美濃鏡島の人。乳は家光、小字兵助。秀吉に仕えて戦の度毎にて功あり、天正十一年四月、賤ヶ岳の役に従い先登して越兵十数人と闘い、奪兵して戦死(野史)

美濃源姓石河氏(美濃の石河氏のみイシコと読む)
頼朝流石川氏の後なりと云ふ。其の譜に曰く、福原氏の族にして多田満仲二男頼親(大和守)−有光(石川冠者、源太)−頼遠(福原三郎。永禄三年義家の代官となりて奥州に下る。仙道七郡を領して石川郡に住す。初めて石川氏と称す。)−基光−光義−光治(承久三年美濃市櫓沢田成田の地頭となり美濃に移る)−光経−光久−政久−政一−政国−政義−義定−貞継−義頼−義親−有親−有基−光清(駿河守、美濃鏡島城に依る)−光延−光重(伊賀守、秀吉に仕ふ)−光元(紀伊守、播磨国龍野城に移り、五万三千石を領す)−光忠(徳川家に仕ふ。尾張様に属す)−正光−章長−正章−忠章−(享保年中石川を改めて石河とす)−光當−克(竹冠に「涛
」)−光茂−光晃−光凞(美濃駒場一万石)、現今男爵、家紋向鶴、鶴圓

光重の兄光政−貞政(伊賀守、秀吉に仕ふ。後江戸旗下の士となる。寛永十八年系譜を捧ぐるとき正して石河に改む)−貞利−貞代−貞国−貞貴(正章三男、養子)−貞義−貞通−貞大(榊原政敦二男、養子)−貞明(保科正昭二男、養子)−貞昭、家紋向鶴、剣花菱

貞政弟 勝政(土佐守、江戸旗下の士)−利政−尚政−政郷−政朝(章長四男、養子)−政武(正章弟章治三男、養子)−政央−政平−政徳、家紋向鶴、剣花菱

新撰志厚見郡鏡島村条に「古城跡は市場にあり。城主は石川駿河守光清(法名三関)はじめてここに住す。走れ多田満仲の子大和守従四位下源頼親の末孫にて世々当国の湯住人也。其子石川某(法名は江雲)家を継ぎて、ここに住す。

其子杢兵衛光信(法名養徳、信長公に仕えて鏡島に住す)、その子杢兵衛、光政まで四代鏡島の城代なり。その子伊豆守貞政の子孫、また貞政の弟土佐守勝政の子孫とも。今御旗本にて関東に奉仕す。光政の弟伊賀守光重、その子紀伊守光元、是れ名古屋の老臣石河鏡島家の先祖なり。」と。また石河氏館は村うちにあり。石河氏は清和源氏の裔孫也。頼親十代加々島杢兵衛光信、信長公に仕えて加々島村に住す。其の子杢兵衛光政、秀吉公に仕へ、同所に住す。光政の弟光重石川伊賀守と名乗り、秀吉公に仕ふ。其の子紀伊守光元、秀吉公に仕え播磨龍野城主となる。後裔源敬公の御?(判別不能1文字)屋となり、名古屋の郭内に第宅を賜ふ」と。

な・・・・長かった・・・・・・・バタリ

羽尾

明日からまた忙しくなりそなので、メモメモは早めにすることにしました。
しかし今年中にこのメモ帳終わらなかったな・・・(涙)

『姓氏家系大辞典』角川書店
羽尾

上野国吾妻郡の羽根尾邑より起こる。信州滋野姓海野氏の族にして、羽尾記に
「上州吾妻郡羽尾と云ふ山里に羽尾入道何某と云ふ侍あり。あまた男女の子を持てり。嫡子羽尾入道幸全、二男海野長門守幸光、三男海野能登守、四男海野郷左衛門、第五は女、是は大戸心楽斉の室なり。
海野能登守嫡子 うんの中務、第二女は赤見七郎左衛門の室也。第三女は大熊備前守嫡男、大熊五郎左衛門の室なり。
中務第一の娘は根津志摩の室なり。第三は原江左衛門、大坂にて五月五日討死す。」

また加沢記に
「吾妻三原の地頭、滋野の末葉の羽尾冶部少輔景幸と云ひし人あり。嫡子は羽尾治郎幸世入道、二男海野長門守幸光、三男同能登守輝幸と申しけり。道雲入道は生害あって、舎弟二人は越後の斎藤越前守に属しける。斎藤没後の節、甲府へ忠節あって三原郷を御取立あって、天正三年夏の頃岩櫃城を預けられ、吾妻の守護代となり。輝幸の嫡子中書幸貞は、矢沢薩摩守頼朝の聟に成りて真田の(妹?1文字判別困難)聟なり。
幸貞の妹二人あり。原監物、祢津右衛門尉の妻女也」
と。

その活動は羽尾記に
「天正七年■■(原書文字判読不可能)・八歳、信之・十八、幸直・十七、矢沢但馬・十八、森土佐・廿三。信之は永禄九年丙寅誕生なり。蓋し海野能登守は強弓を引き、あら馬をよく乗る。新当流の兵法をよく志し、力百人にたいし勇もうの侍なり。然れば己が勇の人にすぐれたるを以て、兄弟親族をかへりみず、古郷を去って兵法執行にいかる。尤も至る所毎々武勇名誉をあらはして、時の人の衆目を驚かす。之以上原能登守と名乗る。武田信玄源晴信、同勝頼の二代に仕へて軍功をはげまし、年七十に余り生国上州に帰る。このころ吾妻郡岩櫃城に上杉景勝より斎藤摂津守と云ふ者、城代にさしおけり。摂津守は能登守が武勇妙たるを知り、能登守を?(判別不能1文字)いて客人として振舞ふ」
と。
また隠岐守、此のむねを安房守方へ注進す。房州大に悦びぬ。沼田の城代に矢沢薩摩守頼綱を差遣はして、城地を堅固に守り、信州上田城、上州沼田城、全保給ひけり。息男信幸、信幸子信吉、二男信俊、代々城主也と。


・・・・・・なんか文脈が全然繋がってない・・・?
アレ、どっかで混じってるのかな?
羽尾記はこないだ全文を発掘したところですが、目を通せてないので合ってるかどうかがビミョー。
引っ張り出したら修正します。
修正が簡単なのが、デジタルの良いところvv

真田と羽尾と海野のどろどろ劇場は、読んでるとけっこうエグイです。
しかし真田家ってなんでこう・・・・・・ブラコンばっかりなんだろう・・・(笑)

甲斐の原氏

『姓氏家系大辞典』角川書店より。
小幡は家系図がテキストには不向きなのですっとばし。

当国の豪族にして、一連寺過去帳に「慶安7年12月6日、持阿(原氏)、長禄2年12月28日道阿(原右衛門四郎)」など見ゆ。
下って原加賀守昌俊あり。一条庄高畠の人也。信虎、晴信に仕ふ。90騎の将也。古戦録、北越軍団などに、国房、胤之、胤元などに作る。最も妄也。身延祖師堂過去帳に「己酉(天文18)5月朔日、蓮朝(原加賀守)」と見ゆ。
その男隼人佐昌胤あり、信州下郷起請文に名押あり。諸記には多く昌勝に作り、また胤長、昌国とも見ゆ。軍鑑に「百二十騎の隊長、外様近習50騎首領」と。天正3年長篠に戦死す。其の古隼人佐昌栄、其の弟隼人佐貞胤(胤勝)、武田滅亡後、越前の車使??(2文字判読不能)衆に加へられる。また羽尾記に「原監物、原隼人」あり。前者は二代目隼人、後者は三代目隼人也。羽尾条参照。一説に此の氏、清和源氏土岐光行の後なりと云ふ。紋桔梗。
其の他、原丹後守る虎常(浄蓮)、弟与左衛門(原朝、天文中、信州海津城二郭守将。古戦録、箕輪軍記、及び北越の記に勝重とす)、その弟惣五郎、一に與九郎に作る。また原三右衛門尉(子孫岩下村)、また原大隈守虎吉あり。中山広厳院天文12年8月8日寄進状に「原半右衛門虎吉(花押)」と。
猶、軍鑑に小姓衆原甚五郎、原おちこ、身延過去帳に「原善三郎(法善)天正10年6月13日、原藤十郎(了清)天正13年7月14日、原出雲守(蓮生)」
天正7年文文書に原新太郎見ゆ。

原美濃:
家紋九曜星、差物は金の半月、永禄7年没。身延過去帳に「正月廿八日」と。
長男彦充当康景(横田十郎兵衛)、横備中守(高松)の継嗣なり。
次男は甚四郎盛胤と云ふ。長篠に死す。

甲州原雑載 羽尾記に「海野中務、第一の娘は原隼人二男原監物妻なり」と。
また甲陽軍鑑 長沼衆に原隼人、一宮元亀3年文書に原隼人佐、第23項の隼人佐也。

力尽きました・・・。字汚すぎだよ自分(アイタタター)。

原おちこってアレですね。大坂の陣が休戦した隙に幸村(信繁)のところに酒もって遊びに来た武田小姓衆仲間ですね。

立ち退き要求に応じない頑固店主と、役所の下っ端が幼馴染。外でパワーショベルが待機してる状況で、幼馴染の下っ端が明日はいよいよだよ辛いねお前も頑張れと酒盛りするのと同じようなものか。(なんだそりゃ)

羽尾はまた今度。
「信之18歳」という記述だけでいろいろ想像逞しくさせられてしまうので、いっそ『羽尾記』ぜんぶテキスト化したいくらいですが、気力と時間が・・・・(笑)

片葉の葦

健康保険証を捜索しているときの副産物で、またしてもわんさかメモが出てきました。
三国志のメモとかまで出てきたのに、保険証が見つからないなんて・・・。

■藤吉郎鎌研池
浜名郡の芳川村に上頭陀寺という寺あり。近くに「藤吉郎鎌研池」がある。昔秀吉が松下嘉平治に仕えたとき、この池で鎌を研ぎ、切れ味を試すために葦の葉を切ったという
(日本伝説体系第7巻)

■勝頼無念
勝頼本陣になった医王寺の参道脇にある阿弥陀池に茂る葦は片葉である。これには伝説が2つあって、1つは家臣が刀を振り回したので葦の葉が切れ、片葉になったというもの。
もう1つは、勝頼が出陣という時、池のほとりの葦を眺めながら、明日の闘いに勝てばこの葦に扶持をやろうと言った。その夜、葦の精が勝頼の夢に現れて、闘いを強行すれば、片腕ともいうべき家臣を失うと告げる。勝頼は出陣の朝池の葦に向かって、今日の戦でわしを助けねばお前達の一族もひどい目にあわせるぞと刀を振るって嚇した。勝頼は大敗し多くの家臣を失うが、阿弥陀池の葦も片葉になってしまった。
(日本伝説体系7 愛知県西設楽郡鳳来町)

■頼朝
建久四年(1193)頼朝が三原野狩りのおり。白根明神の下で硫黄の臭いがするところがあり、この地の住人細野(または望月)御殿之助幸久にそこの葦を刈らせ池を彫らせて入浴したのが御座の湯。のち源氏にちなんで白旗の湯と改めた。傍らに頼朝が腰をかけた石があり、小祠を白旗の宮という。幸久が葦を刈るとき片葉が残ったので、のち御座の湯近くには片葉の葦だけが生えるという。頼朝は幸久の功を賞し、草津の地と湯本の姓を賜った。六合村の湯本家はこの子孫で、定紋は片葉の葦と三日月の鎌を配したものである。葦を刈った鎌、入浴の日が八月三日で三日月の夜であったからだという。
(上州の伝説 日本の伝説27 群馬県吾妻郡)

警察に行ってきました。

いや別に事件に巻き込まれた訳でも、交通事故した訳でもありません。
健康保険証を紛失したためです。

落とした覚えはないんだけどな〜;
実は医者嫌いなもので、よっぽどのことがない限り、保険証に用はないんです。
自分だけの保険証になってから使ったのって・・・・歯医者くらい?(しかも数年前)
たまたま書類に必要だったので探したら、ない!!!!

こないだ家で忌事があり普段ではありえない片付け方(家具まで移動)をしたため、どこかに紛れ込んだ可能性も否定できませんが、謝って破棄の可能性の方が高いので、とりあえず再発行の手続きをしてきました。
したら、厚生課の方に警察に届けたほうがいいですよと言われたので、仕事帰りに警察行ってきたというわけです。

警察なんて、事故のときしかお世話にならないと思ってたんですけどね。
思ったより大事でした。

遺失物受付は、24時間してるそーです。
覚えておこう。
プロフィール

大蛇丸

Author:大蛇丸
真田氏と武田家臣団が好きで、資料まとめと史跡巡りをしています

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