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姓氏家系大辞典:青柳

■『姓氏家系大辞典』第1巻ア−カ/太田亮/角川書店/1963

青柳
清和源氏南部流。武田氏の族なれど常陸のとは少しく流を異にし、南部実長14世義澄より出づ。発祥地は信濃国筑摩郡青柳村なりと。寛政系譜本支五家を載せ、家紋井桁の内に三階菱、割菱、丸に横柧、其の族青柳伊勢頼長は小笠原氏の家臣にして、青柳城に拠り、仁熊城・竹塚城等を出丸とせり。

長野氏関係の家紋

長野氏滅亡後、武田家臣となった人々だと思われます。
どこから取ってきたんだっけ・・・。群馬県史かなんかだったかな??

長野/檜扇
新五郎/檜扇
南与太郎/檜扇
小熊源六郎/檜扇
長野左衛門/檜扇
浜川左衛門尉/檜扇
羽田藤太郎/檜扇
八木原与十郎/檜扇
須賀谷筑後守/檜扇
長塩左衛門四郎/丸之内の二引りゃう上ニ(判読不可1文字)ト文字
大戸中務少輔/六れんてん
下田/ともへ
漆原/丸の内二引りゃう
内山/すハまに平賀ト云文字
高田小次郎/にほひ中黒
和田八郎/ひ扇
倉賀野左衛門五郎/團之内に松竹
依田新八郎/蝶の圓
羽尾修理亮/六れんてん
--------------------------------ここまで箕輪衆
長野藤九郎/檜扇
同彦七郎/檜扇
大胡/かたはミ 千鳥すそ乙
引田伊勢守/かふ竹の丸の内につふ梅五つ

長野業政の姉は白井長尾景英へ嫁いだ。
長野業政の娘達の嫁ぎ先
一女:小幡城主内上
二女:国峰城主内上
三女:武州忍城主内上
四女:木部殿内上
五女:大戸城主内上
六女:和田城主(和田業繁)内上
七女:倉賀野城主(倉賀野直行)内上
八女:羽尾殿内上
九女:浜川殿内上
十女:厩橋城主内上
十一女:鷹巣城主内上
十二女:室田城主内上

伝説メモ

■『日本昔話通観12 長野・山梨』1988/同朋舎出版
信玄が善光寺を建てるとき、高畑村の柳の古木を棟木にしようとする。高畑村の隣 遠光寺村にいる孝行娘の下へ毎晩通ってくる男がある夜「これでお別れだ」と言い「自分は高畑の柳の精で、明日にも切られるのだが、何万人かかっても引く事はできない。お前が一声かければ動く」と告げて消える。柳の木が切られている所へ娘が行って音頭をとって手伝うと、木が易々と動いて善光寺まで行ったので、信玄は娘にほうびを与えた。善光寺の棟木の後には、その娘の絵が描いてある (続甲斐P277)

桜井重久という武田家の家来が主家滅亡後「貝沼重久」と称して住んでいた。重久が真菰が池に狩に行き、夫婦鴛鴦のうち雄鳥を射殺すと、2・3日後 門口で美しい女の声で「桜井の名もうらめしき貝沼の 真菰が池にのこるおもかげ」「日暮れなばいざと誘いし貝沼の真菰が池の鴛鴦のひとり寝」と細々と言う。越えは何日も続くが女の姿は見えない。一年後の同じ日、真菰が池で雌の鴛鴦を射殺してみると、雄鳥の首を羽の下に抱いている。重久は狩をやめて出家し、鴛鴦の供養をした。(伊那伝説P284、品の伝説P208)

■『日本昔話通観9 茨城・埼玉・千葉・東京・神奈川』1988/同朋舎出版
埼玉県比企郡吉身町(旧北吉見村一ツ木)
原虎胤の妻(別類型では原大隈守の後妻)は諏訪湖の竜神の化身だった。子ができると妻は宝珠を残して湖に帰り、夫は吉見へ移る。二代のうちはそばの大沼に向かって願うと膳椀などが水面に浮かんだので、そこを椀箱淵と言った。(川越郷土4 P204)

■『日本昔話通観13 岐阜静岡愛知』

静岡県田方郡天城湯ヶ島町(旧中狩野町)
信玄の軍医 守清が川を渡っていて馬の足を噛んだ河童の腕を切る。守清の寝所を河童が訪れ「腕を返してくれ」と言うので返してやると、御礼に傷薬の製法を教えてくれる。守清はこの薬を河童薬と名付けて売り、人々は争って買い求めた(伊豆伝P255)

メモ1冊終了!!

年代順になどメモをまとめるような暇はなかったようで。
とんでもなく話が前後してたり、知らない方には親子関係が分らない状態ですがお気になさらず。

■『真田一族と家臣団〜その系譜を探る〜』田中誠三郎/信濃路■
信勝/左馬助、慶弔十四年九月江戸で戸田半之丞勝興と争論し刀傷に及んで逐電か秀忠に従い大番組として京都在中に半之丞氏勝と争い惨殺されたか。
昌親の子・孫七郎信親の時二千石を分与されるが、養子信弘が幸道の養子となり宗家を継いだため断絶。
昌幸は弘治二年10歳で甲府へ。
天正十九年九月、信之に女子まの誕生。高力忠房室。夫没後は帰姓、柴の二の丸様という。
三男信重/大男で相撲好き。1648武州で没。
文禄二年八月、女子まさ誕生。武州飯山三万石・佐久間民部少輔勝宗(勝次)室。夫没後真田家に戻り見樹院と称す。
明暦三年七月、信之隠居し家臣51人傭人307人を連れ柴村へ隠退。信政は八月沼田より入封。信政死後の騒動で信利反対のリーダーは、信政が沼田より連れてきた遺臣中
赤沢刑部、金井弥平兵衛、竹内大膳、金井又右衛門、徳田兵庫、北沢民部、赤沢藤八、望月金太夫、青木権左衛門、山越左内、竹内弥五左衛門、原弥吉、三沢玄蕃、山越市之丞、小田原平左衛門、原半兵衛、佐久間与兵衛門、小野善平太、大熊正左衛門、湯本善太夫、河原三之丞、小山田采女、大熊靭負、原主膳、鎌原外記、出浦五左衛門ら

信之時世の和歌
何事も移ればかわる世の中を夢なりけりと思ひ知すや

馬場主水(角蔵)「真田は大坂陣時内通し炮薬を作り代金として二十万両を受取」と訴え出た。

信政/寛永十六年、信吉子が早世のため沼田城主となる。
長男信就は宗右衛門勘解由。旗本二千俵、のち二千石。小源太信清時改易、のち松代へ来て二百石。
次男信守(又八郎)は正保二年6/23夜、裏門2階で弟の大学(1歳下)と争論し、これを殺して自害。
信武(大学)/信守に殺される。
信福(百助)/早世
某(源太郎)/早世
女子/内藤帯刀忠興三男・遠山主殿頭政亮室。
女子/小出大隈守有重室
女子/土岐左京亮頼長室
女子/鎌原外記室
女子/青山和泉守忠親室
幸道/母は高橋五郎左衛門女、松寿院。昌幸六男・昌親の息子・孫七郎とよく囲碁をした。

昌輝系
(1)昌輝/徳次郎、兵部丞、兵部少輔。天文十二年六月岩尾城生まれ。享年33。指物は白四ツ半に貫木を染付け。のち昌幸が骨を捜し信州へ送り信綱寺へ葬る。
(2) 信正/五郎右衛門、主税助、幸明。母は勝頼臣・相木市兵衛女。天正二年三月生まれ。昌幸に養育される。慶長十六年八月(38)越後高田城主松平上総介忠輝に家柄吟味の上客分として六百石。断絶後浪人するが元和四年松平伊代守忠昌越後高田二十五万石につき、同六年七月六百石で召しだされ、寛永元年、越前家相続につき七百石。79歳で没。
(3)幸寛/越後生まれ。五郎兵衛、七之助、淡路。母は武田旧臣・布下(判読不明1文字)左衛門女。元和七年生まれ。明暦三年、沼田の信利の家老城代役に望まれる。万治元年暇を取り江戸へ。同年八月松平光通時福井へ帰参。

信尹/武田滅亡後昌幸に従い小県郡西力村(現丸子町)に住むが「度々軍功ありといえど房州様へ別心ありて既に生害及ぶべきところ、弾正様の御後室御詫言にて助命し浪人いたされ、池田三左衛門殿(輝正)へ参られ、その後家康へ・・・」
これがあったから私は昌幸と信尹は腹違いだと認識してたのかな?(『真田家御事跡稿』では同じ河原氏から生まれた事になってたハズ)情報源が整理できてないので分りませんが・・・。

幸村/大坂入城時、一説には大助、青柳千弥、三井豊前、高橋采女、樋口四角兵衛、堀田作兵衛らと阿梅のみで、久保田角右衛門、青木半左衛門、鳥羽木衛は幸村妻子を連れて九度山を退却??

『さつまはんしゅ家久記録』真田は日本一のつわもの、古よりの物語にこれなき由、惣別これのみ申す事に候

『山下秘録』家康卿御馬印を伏する事、異国は知らずに本にはためし少なき勇士なり。ふしぎなる弓取り。

大八は一説に片倉氏に引き取られ、片倉米之介守信と名乗り360石。寛永十年59歳で没。守信より8代目の幸歓より真田に復姓。子孫現在。
プロフィール

大蛇丸

Author:大蛇丸
真田氏と武田家臣団が好きで、資料まとめと史跡巡りをしています

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