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◆『長野県の歴史シリーズ3 図説・上田の歴史』◆

自分がぱっと見て必要そうな部分だけ書いたメモなので、そりゃあ前後つながってないのは当たり前ですね。
・・・もう、出典元さえ分れば充分だという気になってきました。

◆『長野県の歴史シリーズ3 図説・上田の歴史』郷土出版社/尾崎行也、川上元 等◆
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滝川が京へ走ると昌幸は信尹に沼田城を奪わせ、自らは砥石城へ移る。祢津氏・依田窪の丸子氏を降し、更級郡村上郷の出浦氏・和田の長井氏ら帰属。
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天正十三年閏八月、上田を攻めた徳川軍陣容
大久保忠世、鳥居元忠、信州の保科・屋代・諏訪・依田ら八千。
神川辺りで開戦、陽動に乗り二の丸門で奇襲される。さらに真田支城・丸子を攻めるが失敗。
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元和八年十月、幕命で参府した信之は松城への所領替えを命じられる。翌月移封。松城→松代への字変更は宝永年中?
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出浦対馬守昌相←何のつもりのメモだこれ;

浦野氏について

◆『上田小県誌歴史研究紀要(昭和50年度)第3号』/小県上田教育会内上田小県誌刊行会
「浦野氏について」坂下毅◆
長篠役後、昌幸は勝頼命により上野国岩櫃城に在す。当時の諸城配備(吾妻郡城塁史より)
岩櫃城主:真田昌幸
岩櫃城代:海野幸光、海野輝幸
柏原城:植票河内守、湯本左京進
岩井堂城:富沢伊代守、塩谷掃部介
大戸古丸城:大戸真楽斉
三島及厚田、一場太郎左衛門、浦野中務

昌幸は天正八年(1580)正月、岩櫃から名胡桃城へ前進基地を移し、3/18武田氏を代表して沼田城へ入る。

◆『中性の草津』草津温泉誌第壱巻/萩原進◆

これはまたものすごくひどいメモです。
文の切れ目すら自分でも分らない。
きっと文章を書く手間も惜しかったのだな、当時の私よ・・・。
そして妙なメモは横にさらなる走り書きが書いてあって、いっそう訳がわかりません。
どこで調べたんだ・・・斉藤越前守の年齢なんて・・・;;

羽尾vs鎌原に真田介入、羽尾を滅ぼす。1563、援軍と称し真田軍が西吾妻に出兵、長野原城(元羽尾の)幸隆弟・常田新六郎が入城。鎌原は斉藤越前守と(判読不能2文字)、同九年東吾妻地侍を編成し、長野原を攻。常田は戦死、鎌原退却し敗北。湯本善太夫は常田を守っていたが敗戦で鎌原へ逃。岩櫃の斉藤はこれは全て鎌原幸道が羽尾と不和後、信玄に従ったためだ、鎌原を倒す以外になしと沼田の沼田万鬼斉と手を組み鎌腹攻略を企画。鎌原は幸隆の出兵を請い、三千騎が岩櫃城攻略のために出動。中に湯本善太夫(草津土豪・鎌原に従い長篠で討死)、西窪、横谷も。永禄十年十月、湯本善太夫・三郎左衛門尉は昌幸指揮下。斉藤は城を出て四万温泉→木根峠を越え上杉へ。同年鎌原は羽尾を追い出す。
永禄八年十月、斉藤越前守一子城虎丸は父の逃走後武山に篭る。越前はもう一度吾妻領をのぞみ武山へ入り、白井城長尾氏など地侍を味方にし、幸隆は地元鎌原・湯本・西窪・横谷を先陣にした。西窪治郎左衛門討死、唐沢杢之助討死、斉藤越前守(38)は城内に押し入った湯本善太夫の眼前で切腹。
羽尾城の海野長門守幸光と弟・同能登守輝幸は斉藤を裏切り幸隆についたため優遇され信濃に住み岩櫃城代となる。鎌原・湯本・横谷ら海野の城代に対し反対する地侍は真田預けとし海野の下へつけるのは避け、他の地侍は海野兄弟の下へ。←永禄九年。
幸隆死後、↑これに海野兄弟が不満を。昌幸は2人に反逆の意図有とみて矢沢頼綱に相談。「海野兄弟は豪勇である。そのうえいつ小田原へ寝返るか分らない。能登守輝幸の子・海野中務幸貞は自分の娘婿だが、この際やむをえない」昌幸は勝頼に打診、出兵。その中に湯本も。

おそらく湯本善太夫の事を調べていた時期のメモだと思います。
メモした当時は気付かなかったけど、出典はほとんど沼田根源記とかあのへんの古書とみた。

◆『信濃のキリシタン』長野カトリック教会◆

C.R.Boxer著『The Christian Century in Japan』によれば、1549〜1650年間、信濃国では高遠・上田・松代がキリシタンの中心地だった。
元和六年(1620)イエズス会フェルナンデス神父が越後へ向かう途中に沼田に立ち寄って布教。領主真田信之はキリシタンを余り心に留めていなかったらしく、布教を放置していた。
島原乱後(正保以降)、松代にはキリシタン収容所があった。一時改宗はしたが、未だ充分安心できないと思われるキリシタンとその家族を内に閉じ込め、収容所に属す耕地で働かせ外部との交渉を絶ち自給自足の生活をさせていた。現清須町辺りにあった「お裏(?)屋敷」がそれか?
1630年以降は不明だが、松代にキリシタンが多かったのは神父間でも有名だったようだ。

こんな本まで調べてたのか自分・・・(呆)。信之兄上が放置かましたというところがポイントか。
そういえば、松代の大林寺にはキリシタンのお墓があった。収容所が近くにあってなと、じいちゃんも説明してくれた・・・ような・・・(すいません折角御案内して頂いたのに記憶が・・・)
ふーん。こういう事がベースにあったんですね。
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真田氏と武田家臣団が好きで、資料まとめと史跡巡りをしています

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