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甲斐の原氏

『姓氏家系大辞典』角川書店より。
小幡は家系図がテキストには不向きなのですっとばし。

当国の豪族にして、一連寺過去帳に「慶安7年12月6日、持阿(原氏)、長禄2年12月28日道阿(原右衛門四郎)」など見ゆ。
下って原加賀守昌俊あり。一条庄高畠の人也。信虎、晴信に仕ふ。90騎の将也。古戦録、北越軍団などに、国房、胤之、胤元などに作る。最も妄也。身延祖師堂過去帳に「己酉(天文18)5月朔日、蓮朝(原加賀守)」と見ゆ。
その男隼人佐昌胤あり、信州下郷起請文に名押あり。諸記には多く昌勝に作り、また胤長、昌国とも見ゆ。軍鑑に「百二十騎の隊長、外様近習50騎首領」と。天正3年長篠に戦死す。其の古隼人佐昌栄、其の弟隼人佐貞胤(胤勝)、武田滅亡後、越前の車使??(2文字判読不能)衆に加へられる。また羽尾記に「原監物、原隼人」あり。前者は二代目隼人、後者は三代目隼人也。羽尾条参照。一説に此の氏、清和源氏土岐光行の後なりと云ふ。紋桔梗。
其の他、原丹後守る虎常(浄蓮)、弟与左衛門(原朝、天文中、信州海津城二郭守将。古戦録、箕輪軍記、及び北越の記に勝重とす)、その弟惣五郎、一に與九郎に作る。また原三右衛門尉(子孫岩下村)、また原大隈守虎吉あり。中山広厳院天文12年8月8日寄進状に「原半右衛門虎吉(花押)」と。
猶、軍鑑に小姓衆原甚五郎、原おちこ、身延過去帳に「原善三郎(法善)天正10年6月13日、原藤十郎(了清)天正13年7月14日、原出雲守(蓮生)」
天正7年文文書に原新太郎見ゆ。

原美濃:
家紋九曜星、差物は金の半月、永禄7年没。身延過去帳に「正月廿八日」と。
長男彦充当康景(横田十郎兵衛)、横備中守(高松)の継嗣なり。
次男は甚四郎盛胤と云ふ。長篠に死す。

甲州原雑載 羽尾記に「海野中務、第一の娘は原隼人二男原監物妻なり」と。
また甲陽軍鑑 長沼衆に原隼人、一宮元亀3年文書に原隼人佐、第23項の隼人佐也。

力尽きました・・・。字汚すぎだよ自分(アイタタター)。

原おちこってアレですね。大坂の陣が休戦した隙に幸村(信繁)のところに酒もって遊びに来た武田小姓衆仲間ですね。

立ち退き要求に応じない頑固店主と、役所の下っ端が幼馴染。外でパワーショベルが待機してる状況で、幼馴染の下っ端が明日はいよいよだよ辛いねお前も頑張れと酒盛りするのと同じようなものか。(なんだそりゃ)

羽尾はまた今度。
「信之18歳」という記述だけでいろいろ想像逞しくさせられてしまうので、いっそ『羽尾記』ぜんぶテキスト化したいくらいですが、気力と時間が・・・・(笑)

テンプレテンプレ

結局昨日はどこへも泊らず、広島から日帰りしてきました。
奈良を朝6時に出て4時間半で到着。のんびり走ったら諏訪に着くくらいの距離なんだと感心しきり。いや滅多に西へ向けては走らないので・・・。

従兄弟たちはどうしても呉へ行きたいと言って、電車で行きました。頑張れ。
イイ写真が撮れたら回してくれと頼みましたが、一体彼らがどういう基準で「イイ」と判断するのかは微妙なので、どんな写真がくるかいっそ楽しみですvvv
こちとら尾道まで地道で走って、思いがけず『男たちの大和』ロケセットを発見!(知らなかったんです)後部座席で父親が教習所の教官よりもうるさかったのをすっぱり無視して走っただけの甲斐はありました♪

しかし戦国関係では、せいぜい『水軍まんじゅう』を購入したくらいです。
因島も行こうと思えば行けたんですけどねぇ・・・・時間的な余裕がもちっとあれば。
本因坊と村上水軍のために、因島リベンジはしてみたく思いますv

さて。
テンプレをカスタマイズする余裕がいまひとつないので、とりあえず goo ブログを利用してないと使えないスペシャルとやらを使ってみようと思い立ち、『オペラ座』にしてみました。

・・・・・・うわぁ・・・合わねえ・・・・。
この写真の下で「お屋形さまが」とか口走るのか・・・。

すいません。わたし好きなんですオペラ座。(ひろこ様DVD貸してくださって有難うございますvv)
いや歌はロンドンキャスト派なんですが、DVD特典の「サラ・ブライトマン」プロモを見て、映像の恐ろしさを知りました。
映像って、映像って、・・・いろいろと残酷ですね・・・・。

違和感アリアリでしょうが、そのうち変えますので細かいことは気にしないで下さい。

とりっくおあとりーと!

お菓子をくれないとというのは子供の特権さそうですが、日本じゃ大人もやってる気がしますね。
・・・もしかして明日からハロウィンテンプレート使えないんじゃないの?
早くカスタマイズしろっつうことですね、こりゃ。

しかしここのところ外出ばかりで土日PCに近づけません。そのうえ今週末は本家(広島)に行かねばなりません。
片道 車で4時間だし日帰りしようと思いましたが、せっかくの高速代がもったいないので帰りに尾道でも寄ろうかと画策中。
たぶん同行するであろう従兄は呉に行きたそうでしたが、悪いが私は第二次大戦には全く興味ない。もっぱら帆船には興味あるけど(笑)
基本的に長野と山梨にしか用事がないですからねぇ・・・あっち側なら、強いていえば安芸武田氏と山県氏のことを調べるくらいです。

あと興味あるのは因島村上氏ですが、自家用車移動で海を渡るのがめんどくさい。
うーん。やっぱりあっち方面で観光地ゆーたら、尾道か倉敷・・・??

片葉の葦

健康保険証を捜索しているときの副産物で、またしてもわんさかメモが出てきました。
三国志のメモとかまで出てきたのに、保険証が見つからないなんて・・・。

■藤吉郎鎌研池
浜名郡の芳川村に上頭陀寺という寺あり。近くに「藤吉郎鎌研池」がある。昔秀吉が松下嘉平治に仕えたとき、この池で鎌を研ぎ、切れ味を試すために葦の葉を切ったという
(日本伝説体系第7巻)

■勝頼無念
勝頼本陣になった医王寺の参道脇にある阿弥陀池に茂る葦は片葉である。これには伝説が2つあって、1つは家臣が刀を振り回したので葦の葉が切れ、片葉になったというもの。
もう1つは、勝頼が出陣という時、池のほとりの葦を眺めながら、明日の闘いに勝てばこの葦に扶持をやろうと言った。その夜、葦の精が勝頼の夢に現れて、闘いを強行すれば、片腕ともいうべき家臣を失うと告げる。勝頼は出陣の朝池の葦に向かって、今日の戦でわしを助けねばお前達の一族もひどい目にあわせるぞと刀を振るって嚇した。勝頼は大敗し多くの家臣を失うが、阿弥陀池の葦も片葉になってしまった。
(日本伝説体系7 愛知県西設楽郡鳳来町)

■頼朝
建久四年(1193)頼朝が三原野狩りのおり。白根明神の下で硫黄の臭いがするところがあり、この地の住人細野(または望月)御殿之助幸久にそこの葦を刈らせ池を彫らせて入浴したのが御座の湯。のち源氏にちなんで白旗の湯と改めた。傍らに頼朝が腰をかけた石があり、小祠を白旗の宮という。幸久が葦を刈るとき片葉が残ったので、のち御座の湯近くには片葉の葦だけが生えるという。頼朝は幸久の功を賞し、草津の地と湯本の姓を賜った。六合村の湯本家はこの子孫で、定紋は片葉の葦と三日月の鎌を配したものである。葦を刈った鎌、入浴の日が八月三日で三日月の夜であったからだという。
(上州の伝説 日本の伝説27 群馬県吾妻郡)

警察に行ってきました。

いや別に事件に巻き込まれた訳でも、交通事故した訳でもありません。
健康保険証を紛失したためです。

落とした覚えはないんだけどな〜;
実は医者嫌いなもので、よっぽどのことがない限り、保険証に用はないんです。
自分だけの保険証になってから使ったのって・・・・歯医者くらい?(しかも数年前)
たまたま書類に必要だったので探したら、ない!!!!

こないだ家で忌事があり普段ではありえない片付け方(家具まで移動)をしたため、どこかに紛れ込んだ可能性も否定できませんが、謝って破棄の可能性の方が高いので、とりあえず再発行の手続きをしてきました。
したら、厚生課の方に警察に届けたほうがいいですよと言われたので、仕事帰りに警察行ってきたというわけです。

警察なんて、事故のときしかお世話にならないと思ってたんですけどね。
思ったより大事でした。

遺失物受付は、24時間してるそーです。
覚えておこう。
プロフィール

大蛇丸

Author:大蛇丸
真田氏と武田家臣団が好きで、資料まとめと史跡巡りをしています

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